この記事(1997年頃)は「Tigerwax2000」(*資料へリンク)さんから拝借、
限りある資源を大切にさせて戴きます。


BACK TO 80'S SPECIAL EDITION:

NEW WAVE
THE SETTING SUN
OR
DAWN?

FEATURING KOJI UENO+KEIICHI OTA
REPORT:JOCKO HOMO
80年代の国内ニューウェイヴのひとつの象徴でもあったゲルニカ。
バンドとは根本的に違う構造で、音楽やヴィジュアルを創造したそのアティテュードは、当時各方面に話題を振りまいた。その中心人物であった上野耕路氏は、現在独自な視点と手法によるユニークな作曲家として、様々な音楽界でその存在を認められている。そしてゲルニカの創作のもうひとりの、というより核となるコンセプトの共同創作者でもあった太田螢一氏は、美術関連から作詞までを手懸けるアーティストだ。
久々に会ったご両人。このクロストークはTigerwax2000の呼びかけによる、ニューウェイヴ再検証という目的で行われた対談だ。「ニューウェイヴ!それは落日か、曙か?」ゲルニカを通じながら、当時のシーンの動向からその当事者としての思惑までを、さあ存分に語っていただきましょう。
 ● お二人の出会いというのは?
上野 ちょうど20年前ですね。77年。僕、まだ高校3年生。
太田 学生服着てたね。
上野 太田君とは(千葉の)同郷人なんです。
太田 そのへん一帯に音楽やってる人達が多かったのね。いろいろなタイプはあったけど。当時千葉はアメリカンロックみたいな人が多くて、その中でそういうのに交わらない人達が序々に集まってきてた。その中の若手の一人として上野君が登場した。僕はちょうど目指すものを持って絵を描き始めてた頃だった。
上野 僕はその頃、頭の中が分裂してたりして(笑)。ジャズをやりたかったんだけど、向き不向きがあって。それで音楽大学なんか行っちゃったりして、コンサヴァティヴな教育を受けつつ、でもセックス・ピストルズとか人気が出てきてね。
太田 そういう時代的な空気が盛り上がってきてたんだよね。
上野 その前からも、ロキシー・ミュージックとかスパークスとか出てきてたし。
太田 ノスタルジーみたいなものが絡まって、ああいう屈折感のある音楽に魅かれ始めた。それにパンクがグイッとくるんだよね。で、僕も音楽はやっていないけれど、音楽的なニュアンスで絵を描けたらなと思ってた。
上野 昔からロンドンとかはアートスクール出身のミュージシャンが多かったけど、日本はそういう感じじゃなかったですよね太田君はかなりそのへんに突っ込もうとしてたよね。その頃から作詞をずいぶんしてたし。
太田 周りに音楽やる人達が多かったから、必然的な感じでだけどね。
 ● 二人で何か活動していたのですか?
上野 77年はとりたてて行動は起こさなかったんですけど、次の年ぐらいにはいろいろなことが実現してきて、太田君は『パノラマ・アワー』っていうグループ展をやったりして。その会場で流す音楽を作るんで、初めて多重録音をやったんですよ。そこで太田君の歌詞も使って、それで泉水(敏郎)君、[※8½ のドラマー。後にハルメンズ、ヤプーズ、ヒカシューなどにも参加。ミントサウンドからソロアルバムも出した]とかも一緒に、そこから 8½ が始まった。その名前は太田君が付けたんですよ。
太田 いや、(フェリーニの映画から)もってきただけ(笑)。
上野 なんか、いいんじゃない?みたいな感じで(笑)。
太田 そういう思いつきは常にあったんだよね。そういうものを気取るというか。
上野 音楽やってて、副次的にそういうものも知ってますっていうより、もっと前面に出しちゃうみたいな。
太田 でも単純な話だけど、そんなことすらしてしまいたくなるような現状だったんだよね、当時としては。でも 8½ という名前はカチッとしてて、記号みたいでいいなと思った。
上野 その展覧会の曲は 8½ でもやってた。太田君の歌詞もすごく重要だった。

 ● 渋谷にあったクラブ、《ナイロン100%》周辺での交流は?
上野 多分79年くらいからですね。 8½ は千葉ではあまり受け入れられなくて、むしろ東京の方から声がかかるようになってきてた、太田君もそうだったけど。それでヴォーカルの久保田(慎吾)君[※のちにプライス、クリスタル・バカンスなどのバンドをやる]とかは東京に住んで、それで彼が本拠地にしていったのかな?
太田 それでみんなゾロゾロ、安心して行けるようになった(笑)。
上野 集まる場所が全然なかったから、シーンが作れない感じだったんですよね。それで中村直也[※8½ の他にもニューウェイヴ系のバンドのマネージメントや、マスメディアの仕事などをしていた仕掛け人的存在の人物]がマネージャーのようになって、8½ も活動していった。でも僕はその頃まだ千葉に住んでいたのね。《ナイロン100%》にはヒカシュー[※巻上公一を中心とする演劇的感性も持ったグループ。当時はニューウェイヴ/テクノ色の強い音楽をやっていた]とかフレッシュ[※高木完がヴォーカルのパンクバンド。ゴジラレコードからシングルが出ていた]とかも来ていたかな。
太田 あの頃いた人達は、みんな何度かはあそこに出入りしたんじゃないかな。
 ● あの店のイメージは、ブラックライトだったりしましたよね。
上野 ネオンとか蛍光灯とか、ニューウェイヴな感じ(笑)。
太田
椅子とか安普請でね(笑)。あの時期、他にもいくつかそういう店はあったんだろうけど、もっとアンダーグラウンドな感じで気分的に合わなかった。無機的なものとちょっとノスタルジックなものがダブってる感じは、当時の気分だよね。
ゲルニカがプロデュースしていた
ナイロン100%での「近代青年の集い」チラシ
(チラシ制作/提供:太田螢一)
上野 でも最近知ったことなんだけど、8½ とかでライヴに出てた頃は、周りに暴力的な人がいて怖かったんだよ。やってると椅子が飛んでくるんじゃないか?なんて。特に中央沿線の連中は怖くて。ところがこっちは怖がってたんだけど、実は向こうも怖がってたらしくて(笑)。何でかっていうと、こっちは完全にいかれた精神病患者みたいに思われてたらしい(笑)。
太田 ああ、そういう怖さは確かにあったかもしれない。ロック的なワイルド感じゃない、精神病的な怖さが 8½ にはあったかも。今考えるといいグループだったかな。
 ● その後、8½ からゲルニカに移行する頃には、どういう活動をしていたのですか?
上野 8½ をやめちゃったことは一生の不覚というか一番後悔している出来事なんですよ。その間にハルメンズをやって、プロデュースが鈴木慶一さんだったんで、その関係でスパイとかも手伝ってた。でもハルメンズのレコーディングは悲しい思い出で。最初僕は多重録音で、彼らがやっていることを手伝っていたんだけど、そのうちにメンバーにエントリーされちゃってて。佐伯(健三)くんはイデオローグ的なところがあって、まんまと嵌まっちゃった。その反動もあって、バンドでやるより多重録音の方にリアリティを感じていったと思う。そういうこともあって太田君とゲルニカを始めていくんだよね。他の人もやっていたけど、僕も太田君の詞に曲を付けたいなと思っていたから。
太田 いつの間にか付いていたよね。だから何となくワーッと当然の如く出来上がっていったんだよね、ゲルニカの母体は。
上野 戸川さんはハルメンズのレコーディングに遊びに来ていたファンで、彼女はものすごく《ナイロン100%》に入り浸ってた。それで女優だって言われてたんだけど、女優なら発声の訓練とか、ダンスの素養もあるに違いないと思ってたら、本当にそうだった。自分で李香蘭の物真似とかやってて、面白かったな。歌も巧いなと思ったし。で、ちょっと丸め込んだところもあるんだけど、彼女はドラマのチョイ役とかやってて、そっちで世の中に出たいというのがあって。歌を先にやっちゃうとちょっと違うってことでね。結果的には同時進行みたいな感じだったと思う。


当時千葉に住んでいた上野さんの自宅にて
ヴォーカルトレーニングする戸川純さん (撮影:太田螢一)
 ● ゲルニカはバンドスタイルじゃないところが新鮮で、ニューウェイヴの象徴でもありましたよね。ロックも全然ひきずってなかったし。
太田 イメージを強制したの。
上野 それで、今さらそんなことやってどうするんだ!みたいなこと言われて。そういうところはすごくラジカルだった。
太田
70年代の終わりにクラフトワークとか見て、結構やりきってるなって思ってたから、そういうものじゃないと、というのはすごくあった。たまたま楽器をやってて、みんなでバンドを始めてみたいなのは、もうやりたくないなと思ってたからね。先にこういうものを作りたいと思い浮かべて、それに合わせていろんなものが出来上がるのが正しいような気がしてた。でも、それを本当にやってるのって今でもないじゃない? でも、ゲルニカは、ある程度のものが出来たということでは運がよかったかもしれないね。
(撮影:太田螢一)
 ● その世間に投げた石は大きかったんじゃないですか?
太田 それはよくわかんないけど(笑)。
上野 倍にして仕返しされたりして(笑)。
太田 結構極端なことやってたからね。でもその後の80年代には、そういう発想でやってるものはいくつかあったかも知れないね。
上野 あとゲルニカは、日本人のカッコ悪い感じをもっと前面に出そうっていうのがあった。どうせどんなに頑張ったって、カッコよくはならないんだから、がんばってもこの程度だっていうのを前面に出そうとしてた。ゲルニカのその頃の大作だった『曙』は、ヨーロッパの落日に対抗して、アジアの曙だ!とか太田君は言ってた。ロキシーの『ソング・フォー・ヨーロッパ』とかの逆をやろうと。でも曙とか言っても、そのあとは知らないよ、って感じだったけど(笑)。
太田 まったくね。思いつきばかりで。
 ● ニューウェイヴには思いつきとかアイデアは必要不可欠だった。
上野 ふつうは直感がすべて形になるとは言えないけど、ゲルニカはそれが形になっていったんで変な感じだったですよ。
太田 時代もあるよね。やったが勝ちみたいな。でも鈴木慶一さんも何かの文章で、当時の人達は発明をたくさんした!って言ってて、確かに発明してものを作る感覚はあったかも知れない。でもそれより前の世代の人達は、アイデア面ではずいぶん僕らの世代の影響を受けたと思う。
上野 ちょっと搾取かな?っていう感じもなくはなかったけれども(笑)。結局その第一世代の人達は、日本のフォーク/ニューミュージックを作った人達だからね。レコード会社に対しての説得力は持っていたけど、いわゆるミュージシャンプロデューサーみたいなのが流行ったじゃない。でも、あんまり例外的な人はいなかったと思うな。YMOの人達にしても。
太田 そうだね。ムーンライダーズとかあがた(森魚)さんとかにしても。
 ● ちょっとスタンスの違ったプラスチックスとかは?
太田 ああいう音楽畑じゃない人達が音楽をやるのがイカす、みたいなのは80年代の特徴だったかもしれないね。
上野 ある意味では突き抜けてたかも知れない。メンバー各人とはその後もいろいろと接触があったんだけど、ただバンドとしてはあまり会ってなかった。立花(ハジメ)さんや中西(俊夫)さんは直感の人だったな。佐久間(正英)さんは頭のいい人。でもプラスチックスに佐久間さんがいたことは大きかったと思う。音楽的な部分では。佐久間さんはプロデューサー指向が強い人だったから。
 ● 当時はそういう音楽をやる人はやっぱり少なかったと思いますか?
上野 やっぱり今よりも圧倒的に少なかったと思う。今はこんな、猫も杓子も、というと怒られそうだけど。
太田 特殊な人達だったよね。今は音楽やってるって言ってもふつうだけど。で、そういうニューウェイヴの情報のあるメディアも少なかった。ビックリハウスや宝島ぐらいかな? ビックリハウスは70年代の半ばぐらいから登場してきたんだけど。僕が絵を出していったのも、その2つが大きかった。
上野 デビューしちゃった?
太田 デビューしちゃった。宝島で(笑)。当時宝島で中村直也がやっていたコーナーがあって、《デイライト・ドリーム》っていう。奥平イラとかいろいろな人達が係わってて、そこのひきがあって毎月1枚ずつ描いたのが最初だよ。その中にあった詞に彼が曲を付けたのが、ゲルニカとしての最初の制作で、『工場見学』とか『ブレーメン』とかね。

part1はここまで