ASPHALT 1878








上野耕路氏 所蔵
アスファルト 1978
アスファルト 1978
NEWS 1978
【アスファルト】と同じ年に
この絵を描いた
大変 目まぐるしい太田

今でもけっこう好きな作品

興津信弘氏 所蔵
NEWS 1978
近代体操 1979
Rhythmische Gymnastik 1979
この絵のタイトルがハルメンズの
アルバムタイトルになった

(色彩は濃アムネジア界にて
ご覧ください)

戸川純さん所蔵
KAMFER 1979
下ぶくれ顔の初期

この作品でこの顔に統一

上に別の絵を描いてしまった
もう無い
作品
カンフル 1979
電光ボーイ 1979
ELECTRICIAN 1979
(下ぶくれ顔は)
やがて
この作品で完成

(AMNESIAでは【電光照射】)

 
 太田螢一作品集AMNESIA(1996年)への上野耕路氏の寄稿「太田螢一君のこと」の中から、パノラマアワー期についてよく伝わる部分をここに拝借します。

……………
最初に会った時から、音楽か美術などの趣味の話をしていたように思います。そのことは、趣味の会話に飢えていた僕にとって願ってもないことでした。
次に彼に会った時は、泉水君が8½ を結成した頃でした。太田君は8½ に詞を提供していました。彼は楽器はやらなかったけれど回わりのミュージシャンに影響を及ぼしていたように思います。
かく言う私もその一人で、8½ にはまだ参加していなかったけれど、いずれ太田君の詞に曲をつけたいと思いました。
それから約半年の間に、僕は8½ に参加したりして、太田君とは徐々に親しくなっていきました。そんな折に、太田君から決定的な衝撃を受けました。それは第一回パノラマ・アワー展でした。(この時、会場に流す音楽を泉水君と一緒に、初めて自宅録音しました。)
開催日に遅れること数日、やっと彼が全ての作品を出品し終えたちょうどその日に知らせを受け、急いで僕は会場に足を運びました。行く途中、よく考えたら太田君の絵を見るのは初めてだということに気付きました。
会場に行ってみて、僕はたいへん驚きました。そこに陳列されていた絵はいままでに見たこともない類の絵でした。
まず絵具の発色が異常でした。アクリル絵具を使っているとのことでした。
そして、絵の世界。最初に見た絵は紫色の和服のようなものを着た女性が、顔をおおい隠して泣きくずれているという絵でした。和服の紫色の外殻にほどこされた光沢が日本とも西洋ともつかぬ雰囲気を漂わせるとともに、異様なペシミズム、しかし見るものを暗い気分にはさせないそれが展開されていました。次に目にとまった絵。昆虫標本を抱えた詰めえりを着た少年の絵。やはり日本とも西洋ともつかぬ雰囲気。映画「コレクター」的世界と江戸川乱歩的怪奇趣味がそこにありました。その他にも、【ニュース】と題された女性アナウンサーの絵とか、ちょっとエロティックな幾枚かの絵、また現在僕の手元にある【アスファルト】という絵も出品されていました。
この時、ああなんてミュージシャンとは怠け者なのだろうかとつくづく思いました。太田君の一枚の絵によせる集中力や、彼の言わんと欲する世界の実現力などの彼の創作態度の前では、ミュージシャン、特にロック・ミュージシャンのそれは甚だちっぽけなものに思われたのです。
僕に、創作態度、特に作品を完成させる集中力を教えてくれたのは、他ならぬ太田君なのです。
第一回パノラマ・アワー展の数ヶ月後、待望の太田君の詞が手元に届きました。最初8½ の他のメンバーに手渡されていたものの、彼がこれは上野向きだといって僕のところへ回してきたのがその詞でした。それは、8½、ゲルニカ(ライヴのみ)で演っていた「戒厳令」という作品です。この曲が絵太田君とのコンビネーションの第一回となりました。
その後、太田君とのコンビは、8½、ハルメンズ、ゲルニカ、人外大魔境、営業用の作品のいくつか、を通じて今までに32曲を数えます。(註* 1986年当時の数字です)
  第二回のパノラマ・アワーの時から、太田君の絵に、お馴じみになった下ぶくれのキャラクターが登場しました。最初にそれを見た時マニエリスムの本を読んでいたせいもあって、これは、マニエリスムに特有のフィグーラ・セルペンティナータ、蛇状曲線体なんだなと理解しました。第2回のパノラマ・アワー展の時には、ハルメンズの1stアルバムのタイトルにもなった傑作【近代体操】や、下ぶくれキャラクターの第一作で、【電光照射】(註*当ページでは【電光ボーイ】、個人的に好きな絵【カンフル】、彼の自画像などが出品されていました。
……………

 上野さんがお好きと書かれている【カンフル】は その後、上に他の絵が描かれ、今はもうそのままでは見られない絵となってしまいました。「紫色の和服…」の絵はどこかにあるかも知れないけれど、「昆虫標本を抱えた詰めえりの少年の絵」は太田さん自身「その頃から見ていない」らしく、これもひょっとすると…。他にもまだ、上に別の絵が描かれてしまった作品達が。


「最後の宴」(1980年頃)
左から上野耕路氏、太田、須藤なおひろ氏、中村はるみさん


 パノラマ・アワー期の作品については、土井章史氏構成・インタヴューによる記事「メリーさんの作家訪問 怪人通信その5 太田螢一」(1990年 「イラストレーション」誌)でも語られています。その部分をご拝借…

 基本的な部分は変わらない

 ここに、太田螢一が19歳のときに描いた絵がある(註* 当サイトに於ける【エーテル】。誌面ではモノクロ掲載)。今、彼は33歳だから、14年前の作品である。曰く、絵を描きはじめて2作目の作品だそうである。
「デザイン学校にいたんです。別に絵を描こうというわけではなく、なんかそういう関係の仕事ができればと思って。ただ子供の頃には割とよく絵を描いて絵描きになりたいなと思っていました。デザイン学校時代に関係してた音楽の具合とか、そういう影響である世界が生まれてきて、固まって、そういうのを絵にできたらなと思って描きはじめたんです。」
何を言っているのか、と思ってしまうが。その当時は、太田螢一にとって実に重要な時期ではなかったかと思う。「恥ずかしい」と言いながら見せてくれた19歳2作目の作品は、すでにあやしげなグラデーションのつけかたも、現在ほどではないが存在する。ここで絵の方向は確立している。そしてそれは、現在も続いている。
「あまり変わっていないような気がしますね。当時の時代の感じもありましたけど、描きはじめたぐらいから紆余曲折しないで、あっという間にここまで来ちゃったという感じがします。テクニックなんていうのは変わりましたけど、その基本的な部分は変わってないような気がしますね。
やっぱり、あまり変わる必要がないというか、回りの変化と共に自分が生きてるわけじゃないから、具体的ではないけど、特に自分の好きな漠然としたものがだいたい出来上がって、当然のごとくその中でうろうろしてるわけです」

 そして廿一世紀の太田さんによる当時は…
 「一回目の展覧会で一番人気だった作品は【Boys in The Hospital】。←どっかいっちゃった…。その作品、僕は忘れてた! 確かそれはこないだのシルクのもの(セリグラフィニカ発表作)みたいに黒い輪郭で描いて中をベタに塗った作品で大きいもの。大病院の待ち合いロビーみたいなとこで作業服みたいな服の少年が二人心配そうに語りあってるだけのものだけど 当時の人々にはすごくコワい作品に思えてたみたいだ。芳名帳には当時のアート環境の中で色んな人が色んな事 ―キ印ぞろいなんて言葉も…─ いっててトンチンカンでおもしろい。
 8½ を中心とした 千葉の新しい流れを後押ししたのは確かだったよーだ。僕はその会場で(一回目)初めて、久保田(慎吾)君とあっておどろいた。まさにニューウェーヴの体現者。当時誰よりもそれらしかった(皆、50's風とかロック風とかノスタルジック風とか どっか別の流れを持ってたけど彼はまさにその時生まれたよーな感じ)。上野君はそのちょっと前に会った。育ちが良さそうなイメージが…。」
 「音楽は、一回目二回目ともに8½ を中心に泉水君、上野君が担当してくれた。リズム運動(一回目で流す)、僕らパノラマ、落日、上海特急(一回目)等々作っては流していた。」
「他にも東京タワーの絵やSM的な作品、日本的な作品等々、色々ためしてみていた」
パノラマ・アワー期でした。

 【エーテル】【廿世紀の暮らし】はその後の展覧会には出品されず、パノラマ・アワー展から今ここへ電送。
 「濃アムネジア界」に出品された【アスファルト】は AMNESIA には未収録、【NEWS】【近代体操】はモノクロ収録されています。




人に見せて胸をはれるようになるには お絵描き好きからの
ちょいと大きなミゾをこえてゆかないといけないけど
僕らはパノラマの期間にそれを越えた。
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